にゃんころ黙示録

お風呂が好きなキモオタク

マルクスと貨幣

マルクスの草稿で書かれた貨幣論ほど罪作りな論考はない。マルクスは資本主義社会における無限の媒介装置である貨幣の廃絶を望みながら逆説的に価値形態論において貨幣の必然性を認めてしまっている。剰余価値の追及による労働と使用価値の頽廃を批判するマルクスの思想は大衆社会の全面化によって説得力を失ったが、そのマルクス主義の没落は吉本隆明が象徴するような超資本主義の帰結が麻原彰晃のような大衆的カルトを生み、本来の意味性を希釈し単純化されたネオリベラリズム的な言説に結託したことを思えば、マルクスは没落したあとにまた再考する機会を得たとも言える。

 ポストモダン社会における文化的トリクルダウンが達成されればされるほど労働価値の低下が現れてくる。文化的平等を達成させることで人間性の問題が摩滅していくことに対して、あえて人間性を固持することを言うのであるのならば、それはもはや趣味嗜好=フェティッシュの話になっていくのではないか。しかし資本主義は格差を生みだす暴力装置であると同時に万民平等の文化装置を生みだす無限性を持っているものであるために、それを手放すことによってもたらされる大衆社会の変動にこそクリティックを持つべきものであることのような気もする。万民平等の文化的平等は人間性を死地へ追いやることを思えば、人間性の価値の問題こそいま求められていると言うべきだと考えられる。だがそれは究極の価値を生み出すものに対して、それとは違った価値体系を見つけることでもある。