にゃんころ黙示録

お風呂が好きなキモオタク

安藤昌益とデジタルネイチャー

 封建制に対する対抗思想として生み出された安藤昌益の自然世という発想が近代化の徹底によって崩壊する一方で、民衆の文化的平等が高度な情報通信技術によって叶えられてしまう。自然をデジタルと言い換えることで農耕社会的な自然=母性を高度な技術によるメタモルフォーゼによって崩壊=否定させながらも、より強力なものとして延命させる。

 安藤昌益の思想が根本的にマルクス主義的な労働者(農民)の平等を訴えたものであるのなら、自然世で描き出されるような自然と人間が調和した農耕的共同体はその近代の自由によって崩壊してしまう。しかしその自然の崩壊によって封建的な価値概念から自由になり、様々な可能性が開かれた。一方でそれは安藤昌益が批判していたような法の世(既得権益の欲望によって駆動する社会)が猖獗を極める社会だということでもある。安藤昌益的な自然世は社会の進歩によって崩壊してしまうが、一方でその自然世が達成不可能なものであるがために、何度でも自然世の呼び声が亡霊のように復活する。

 安藤昌益の言うような自然世─法の世─自然世という弁証法的な人間性の回復は途中で羽を砕かれる。しかしその羽を砕かれるがために、デジタルネイチャー化する社会において自然真営道の呼び声は繰り返される。それは安藤昌益が法の世の方法によって法の世を批判するアイロニカルな批評的態度を自己崩壊させながらも、崩壊するがためにその安藤昌益の聖人批判は亡霊のように蘇る。自然をデジタルと言い換えるデジタルネイチャーは、法の世と自然世の共犯関係にあると言えるのではないか。その呼び声は安藤昌益的なものの古さを批判しながらも、より高度な次元において安藤昌益的なものを呼び出しているように感じる