にゃんころ黙示録

お風呂が好きなキモオタク

進歩的文化人

 サブカルチャー批評の根底には丸山真男であるとか鶴見俊輔のような進歩的文化人の系譜がある。例えば丸山なら安藤昌益、鶴見俊輔であるのならばカスタネダといったように偽史的(不明瞭)な対象を論じる批評が大衆化していくと、それが深夜アニメを論じる系譜に濾過されていくのではないか。

丸山真男のワードの強さ(例えば縦軸の無限性であるとか無責任の体系)みたいなものは戦後思想に特徴的であると言えるが、これが戦後という防壁の中で論じられる、かつてあった戦時下に対する批評の想像力であると考えると、これが今日、濾過されていった先でブルーアーカイブ的なもの(それはマルチチュードの世界でもあるが)に転化されるのは、危機的であるといえばそうであるが、それがサブカルチャーという枠組みにおいて転化され続ける限り、抵抗拠点としての偽史的想像力になりうるとも思う。逆に言えばその想像力がジジェクが言うような現実界の砂漠(イロニーの崩壊)となってしまった時には虚構の想像力(虚妄)が一区切りする時であるとも言えるのだが。その一区切りに戦後民主主義的な理性が継承されるかどうかが重要なのだと思う