にゃんころ黙示録

お風呂が好きなキモオタク

美少女キャラクターの表現はどこからはじまったのか

 例えばオタク文化一般というものが漫画全般のことを指すのであるのならば、それはたしかにアメリカ文化に根拠を持つのはそうなのであろうが、美少女キャラクターの表現というのは視覚文化的な文脈からいってヨーロッパ圏の挿絵画家や絵画に根源を持つ(例えばそれは竹久夢二であり高畠華宵でありミュシャであり世紀末美術)と考えてもいい。

 

 そういった文化形態をアメリカ文化に近いものとする文脈には鶴見俊輔がいて、ローティのプラグマティズム論を日本的なポストモダン論と比較したのが柄谷行人だけれど、これは戦前と戦後で文脈的な断絶があるのではないか、と思ってしまう。柄谷行人の批評に鶴見的な文脈を足すことで、文化的な文脈を柄谷的なものに引っ張られてしまっているとも思える。

 これはそもそも漫画が重要なのか、表現されるものが重要なのか、という問題に行き着くのではないか。そう考えると根源にはそもそも少女文化があり、それを戦後につぎはぎしたのが今のオタク文化そのものなのだと考えられる。日本の近代化が何をもたらしたのかといえば、それは節度の破壊(大衆社会の全面化)とそれによる大衆文化的な意味での進歩であると言える。この進歩は芸術と大衆文化的なものの垣根を破壊したが、例えば現在のイラストの表現は結局その伝統的な芸術に対する破壊がなければ生まれていない。つまり美少女イラストというのは数ある芸術作品の残骸を拾い集めるようにして作られたことで成立するものと言っても言い過ぎではない。

 

 その節度のなさというのはそれが何にでも利用され得るという万能の商品性にあると言える。この万能の商品性が精神面においてなければ美少女イラストは成立しないとも思う。つまり文化が商品に引っ張られていくと美少女イラストみたいな表現が必然的に出てきてしまうのではないか。これは美的な文脈や伝統が重んじられる社会では出てこない表現でもあり、例えばヨーロッパの古典主義の画家がエロ漫画を書くかといえば、それはきっとやらないと思う。戦後の繁栄というのは、そういったものの節度がだんだんと破壊されていって、それが美少女キャラクターの発展に寄与したのではないだろうか。

 

それは大衆文化にとっては喜ばしいことであるが、つまり全ての文化が商品という枠の中で姿形を失ってしまうということでもある。その節度のなさというのは資本主義の特徴でもあり、その表現ではなく、表現の扱い方において日本とアメリカには似た面があり、しかしそこに日本の特徴というのがあるのだとすると、それは文化の節度のなさを押し止めるものの欠如であるというか、ブラックホールのような無限肯定、つまり丸山眞男が分析したような無限性が底流にあるという風に感じられるのである。